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越前島津氏の墓と城跡 [史跡]

  以前から気になっていた地元の史跡。折りを見て自転車で周ったりしていたんですがまだまだ観ていないところあるんですよねえ。うちから自転車で10分ほどのところにある重富小学校。

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重富小学校は元々島津義弘公の別邸平松城があったところで現在も学校の石垣は当時の城の石垣がそのまま残っている。

小学校の正門は旧鹿児島県庁の門を移設したものらしく西南戦争の直後に作られたものらしいですよ。

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上の説明文にある岩剣城ですがその城のあった場所がこの山です。

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Wikipediaによると

天文年間、祁答院良重は菱刈隆秋蒲生範清と組んで島津貴久に反旗を翻した。天文23年、菱刈、蒲生連合軍が島津側の武将・肝付兼演の居城である加治木城を攻め、貴久は加治木城を救援するため祁答院良重の住む岩剣城を息子の島津義久、義弘(当時「忠平」)、歳久に攻めさせる。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞であり、良重もよく籠城して耐えたが、救援に来た蒲生範清が島津側に撃退されると孤立無援となり、最後は籠城した女性が化粧道具を投げてまで応戦したが多勢に無勢は明らかで、ついに良重主従は岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院(現薩摩川内市祁答院町)に逃亡し、岩剣城は落城した。残された女性は城の断崖から身投げして自害したという。

この城がなかなか落城しなかったのは、麓の岩剣神社の加護があるからだとして、御神体を白銀坂にある島津氏の本陣に勧請して「戦いに勝利を収めたら、毎年例祭日に神舞を奉納しよう」と願を立てたところ、その夜のうちに城から敵勢が逃亡し落城したとの伝がある。

その後、この城の城代に島津義弘が任命されて入城したが、城の立地はあまりにも不便であり、麓に「平松館」を築いて、その後永禄7年に飯野城に転出するまでここを本拠とした。義弘が転出した後の岩剣城と平松館の状況は不明である。

文禄頃には義弘の娘で島津朝久未亡人となった御屋地とその子供がこの平松館に居住していた。

慶長11年、義弘は再びこの平松館を居所とするが、わずか1年後の慶長12年には加治木館に転居し、岩剣城は実質的に廃城となった。

平松館は元文2年に島津継豊の弟・忠紀が越前島津家を再興したときにその居館となり再建される。その後明治まで使われていた。ちなみに最後の住人は島津久光の子息・珍彦である。

ということらしいです。重富小学校の周りは昔は旗本や家来の家臣たちが住んでいたんでしょうね。少し当時の雰囲気が残っているような。

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案内板を観るとまだ行っていない史跡がいっぱいあるんですよね。

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越前島津=重富島津なんですね。今日そのお墓に行ってきました。こんな近くにあるとは知りませんでした。

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この碑は明治10年に起こった西南戦争に、重富から薩軍側として従軍し、戦死した人々の霊を祭るため、明治12年7月に建立されたそうです。

郷土史の資料によると重富からの従軍者は166名、戦死者は61名ということです。

この碑の横に越前島津氏のお墓があります。歴代の藩主は鹿児島市内にある照国神社に祭られています。

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島津久光の奥方の墓もあります。こんなに近い場所にこのようなお墓があったとは驚きです。

帰り際にこんなものを見つけました。ライバル出現!ですがそれにしてもまたもや案山子とは。

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もう晩秋ですね。マリゴールドが綺麗です。

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猫の親子。この母親は根性ありそうですなあ。

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